熊野森考 その2
- 2013/11/05
- 10:28

近所の山に足を運ぶと、いたる所に炭焼き釜の跡がある。もう遺跡と言っていいくらいに苔むし、木々が覆っているようなものもある。海すぐ山の紀南地方では、海で魚を捕るか、山で木を切るかくらいしか仕事がなかったのだろう、山の奥でぽつりと点在する炭焼き釜跡をみると、田舎がにぎやかだった時代のことをふと想像する。
うちの集落は、海沿いの集落から最も離れた川の上流で、三軒しか家のない集落である。でも昔は子だくさん。一軒に5人くらいは余裕で子供がいたので、両親、おじいちゃんおばあちゃんを含めると、三軒集落でも30人くらいはこの集落にいただろう。今はこの集落にうちの家族、四人だけ、当時はずいぶんとにぎやかだっただろう。にぎやかさは勿論、子供だって立派な労働力だし、一家に一頭牛もいた。それだけの人数を養うため、川沿の中州や、川縁の少しでも平らな所には、石垣をして土地を作り田んぼや畑にした。
川のかなり上流の方にでも、そんな石垣を目にすることができる。その努力にはただただ頭の下がる思いである。今では、こんな谷間のうっそうとした所で田んぼができるのだろうかと思うが、そのあたりの生活圏の山々は、生活需要や炭焼きのため、すっきりと伐採されて、まだ日当りは良かったのだろう。
石垣積みの中には、家が建っていた跡もあり、そんな所には割れた陶器の破片なども落ちている。うちより上流に、四〜五軒の家があっただろうから、さらに賑やかである。川の石を積み上げた石垣の中には、この辺りの細かな石英の結晶(水晶)がびっしりと覆うような石を表面に使っていたりし、木漏れ日を受けてきらきらと輝いていたりする、そんな風情をこらしたようなものもある。
今では、そんな石垣で作られたわずかな土地にも杉が植えられ、間伐もされないままに放置されているようなところも多い。
山に入ると簡素な炭焼き小屋があり、炭焼きが炭を焼く煙が立ち上っている。その頃の炭焼きは、一山いくらで木を買って、その場で炭窯を築き、木が無くなるまでその場所で炭を焼き、また別の場所に移動していくスタイル。炭焼きは、今でいうところのノマド生活、ジプシーみたいなものである。夫婦や子供連れで山に入り、夫が炭を焼き、妻や子供が炭俵を担いで町に卸しに行く、炭を売ったお金で、食料品や生活必要品を購入し炭焼き小屋に担いで帰ったのだろう。道中、寂しいような印象も受けるが、その頃は、山々が人々の生活圏だったから、猟師や、山菜採りの子供や、他の炭焼きに道々ですれ違って、立ち話でもしていたのだろう。山道が生活路として機能し、山を越えて山向こうの集落に遊びに行くのは普通だったろうし、道での立ち話を通じて、いろいろな情報が各集落にやんわりと伝わっていったのだろう。
炭焼きは、斧で木を切っていただろうから、ひと山の木を切るのに数年かかり、その山に滞在して炭を焼く。チェンソーで切ったように切り株に油が付かないから、切り株から蘖(ひこばえ)も生えてくる。ドングリを集めて、苗を作ってそれを植えたりもしていたかもしれない。木がなくなったら商売上がったりなので当然である。シイやナラなどは、10〜20年くらいで直径15〜20センチくらいになるので、順番に山を回って戻ってくる頃には、また炭焼きができるくらいには木が育っている。窯も前使ったのを直して使えばいいわけである。
山の木々が若いと、林床まで日が入るので山菜なども育ちやすく、ワラビやゼンマイ、ゴンパチ(イタドリの方言・この辺りでのダントツの人気山菜)、自然薯や百合根など食べ物も豊富だっただろうし、川には今では考えられないくらいにウナギや鮎、エビやカニなどもいた。炭を売ったお金で、米と味噌と酒が買えれば、もう贅沢なものである。昔の基準で、そんな生活が贅沢なものと認識されていたのかは疑問だが、少なくとも、ウナギが川にうようよいた時代は本気でうらやましい(ウナギが当時、贅沢品だったかどうかも疑わしいが)。
ウナギは、全世界的に減少しているので、人間の乱獲以外にも理由があるような気もしているが、森が変われば生態系も変わる。昔に比べて減ったものもあれば、増えたものもある。自然は、人の都合の良い状態を自ら保ってくれるわけではない。たえず動的で、自然の中に含むあらゆる動植物の中から、その時々で最善なものを選択しているだけだ。
そんな視点で自然を語ってきたいわけだが、とりあえず、今現在増えつづけている鹿・猪をありがたくいただくことにしよう。