熊野森考 その1
- 2013/10/31
- 12:53

熊野の地に越してきて早4年になる。この地での四季の移ろいの感覚もだいぶ身に付き、森の中での生活にも慣れてきた。四季折々それなりの楽しみがあり、毎年新しいことを発見したりチャレンジしたりと、田舎生活は飽くことを知らない。今年からは、土間の台所にかまど(おくどさん)を据え、薪の火で煮炊きする生活がはじまった。プロパンガスは解約である。朝起きて、かまどに火を入れる。火のつき加減、煙の出具合、薪の燃え方、毎回異なるそれらをコントロールしつつ羽釜で玄米ご飯を炊き上げる。そんな素敵な一日の始まりを、かまどの神様に感謝する日々である。
熊野の森は、常緑の広葉樹が広がる深い森である。多くの木々は、落葉しないので冬でもうっそうとしている。さて、このうっそうとしている森は原生林かというと、実はそうでもない。原生林とは、一度も人の手が入ったことのない手つかずの森林である。この辺りの山々の森は、だいたい50年〜60年くらいの森だろう。
拡大造林で杉や檜がどんどん植樹されたのが、昭和20年から40年くらい。昭和30年代後半には、木材輸入の自由化がはじまり、海外から安価な木材が輸入されるようになる。同時に石炭から石油、そしてガスと人々の使うエネルギー源も変化し、植樹林を含め、森林に人々の関心が向かなくなる。
拡大造林以前の森林は、どのような姿だったのだろうか? 近代以前は、人々の生活は森の資源に依存し、寺社や家々の建築は木造、すべての燃料が薪である。
西日本では、平安時代くらいには手頃な山はすでに禿げ山だったらしい。その後、江戸時代くらいには木材の供給が、中部地方、関東地方に移り、明治頃にはさらに北上して、各地に禿げ山が増えることになる。ワイヤーを使って、木材を運び出すことができるようになると、森の奥の木々も切られることになる。
二度の戦争での木材の需要、戦後の復興とチェンソーでの伐採などの近代化でさらに山の木は切られ、木材資源は枯渇し、これはまずいと、比較的生育が早くて建築資材にもなる杉や檜が大量に植樹されることになる。国家的な拡大造林の頃には、植える場所は山ほどあったわけである。
実際、熊野の山々も実に人工造林が多い。至る所、杉と檜だらけである。よくぞここまでというようなところにも植林がある。世界遺産熊野街道沿いでも例外ではない。そんな森林を見ながら、昔の熊野の面影はどんなだっただろうと考えてみるが、実は、昔はけっこう禿げ山だったわけである。地元の年配の人と話していて「よく昔はここからも海が見渡せて」とか、「潮岬まで見えて」とかいうことも聞く。つまり森の木々の背が低かったということだ。
実際、国土地理院のHPで1970年頃の航空写真を見てみると、今自分が住んでいるあたりは山の地肌が見えそうなくらいな山々が多い。
昨今、自然破壊とか森を守れとかよく聞くフレーズだが、こと森林に関しては、植林で多少バランスは悪いかもしれないが、50〜60年間もの間、人の手が入らないというとても良い状態なのである。これは様々な要因が重なった奇跡的なことかもしれない。シカやイノシシなど、野生生物の増加も、おそらく森が彼らを養えられるからである。
我が家は、薪ストーブ、薪風呂、かまどと家から三本の煙突が立っている。それに冬には、アトリエでのロケットストーブが加わり、充実した薪ライフを送っている。日々、身体が煙臭い。
一冬で使用する薪は結構な量になる。今は、壊した建物の廃材を貰っているが、家一軒分の廃材など一冬でぺろりと無くなってしまう。人が生活するのに必要なエネルギー量をわかりやすく体感できる。
今は奇跡的に、森林は手つかずの状態が続いているが、もし、将来的に都市部で人が住めなくなるとか、ガスや石油などの燃料が手に入らなくなり、もう一度、人々が森林に目を向け、森の木々を資材や燃料として使うような生活をはじめたら、あっという間に日本の山は禿げ山に戻るだろう。人間は馬鹿だから絶対そうなる。
毎朝、かまどで玄米を炊きながら、今の生活の贅沢さに感謝しているわけだが、この生活を万人に勧めるかと言ったらそうではない。今の奇跡的な森林の状態を考えると、声を小にしてこの生活を自慢したいのである。